青春シンコペーションsfz
第4章 ハンス対ルーク!(4)
ハンスの一声ですべては決まった。病気の少女のために病院で慰問コンサートをするという方向で師達は話し合いを始めた。
(ハンス先生の本気の演奏か。いったい何の曲を弾くんだろう)
井倉は自分のせいでそうなった事も忘れ、今はただ、師の演奏が聴きたくて心が震えた。彩香は沈黙したまま俯き、美樹は空いたケーキ皿を片付けていた。その脇で、澄子だけが無邪気に猫達を撫でたり、かまったりしている。
「井倉君、彩香さん」
唐突にハンスが二人を呼んだ。
「君達には、そのコンサートで1曲連弾してもらおうと思います。順番は……そうですね、僕とアーニーおじさんの間にしましょう。恥をかかないようにしっかり練習しておいてください」
「え?」
二人は同時に声を上げた。
「連弾ってどういう意味ですか?」
彩香が訊いた。
「二人で弾くって事ですよ。他に意味があると思いますか?」
逆にハンスが訊いた。
「でも……」
彩香は黙った。
「曲は? 何を弾いたらいいのでしょう?」
井倉が訊くと、ハンスは素っ気なく答えた。
「それは、君達で話し合って決めてください」
「でも……」
二人はそれぞれに動揺していた。
「無理です。井倉と連弾だなんて……」
彩香が言った。
「無理ならピアニストになるのも諦めてください」
彼は彩香を見て微笑する。それから2、3歩歩き出してから、ふと思い出したように振り向いて付け足す。
「ああ、そうだ。条件はもう一つありました。メロディーパートは彩香さんが弾く事。いいですね? あとは二人で話し合って曲目を決めて、すぐに練習始めてください。そうでないと仕上がりませんよ」
厳しく言われ、二人は渋々頷いた。
それから、ハンスとルークは黒木と一緒に出かけ、澄子は美樹の書斎を見せてもらうと言って2階に行った。足を痛めていた澄子は兄におんぶしてと甘えた。
「はは。おんぶ癖がついちゃったかな」
井倉が言う。
「酷いなあ。でも、お兄ちゃん、大学行ってからずっと帰って来ないし、たまには妹孝行したっていいんじゃない?」
「よく言うよ」
不平を言いながらも、井倉は久々に妹とじゃれ合う事が出来てうれしかった。
「じゃあ、あまり美樹さんの邪魔するなよ。用事があったら、インターホンで俺を呼べばいいから……」
「わかってるよ。優介ってば過干渉なんだから……」
澄子が言うのを聞いて、美樹が微笑する。
「そうね。井倉君は心配性なのね。でも、いいな。澄子ちゃんにはこんなやさしいお兄ちゃんがいるんだもの。わたしも井倉君みたいなお兄さんが欲しかったわ」
「えーっ? こんな兄貴のどこがいいの? 欲しいなら、いつでものし付けてあげちゃうよ」
そんな事を言う妹を、井倉は軽く小突いて言った。
「こら、調子に乗るな」
「はーい」
そんな二人のやりとりを見て、美樹はまた、微笑ましそうに見つめた。
「すみません。しょうもない妹で」
「いいえ。それより、さっきはハンスがきつい事言ってごめんなさい。悪気はないと思うんだけど、言い出したら聞かないから……」
「それは、厳しくされても当然ですから……。僕がはっきりしなかったのがいけないんです。ヘル ルークにあんな事言われて、舞い上がってしまった自分が恥ずかしいです。とても、そんな実力なんてないのに……。わかっていた筈なのに僕は……」
「あなたのせいじゃないわよ。気にしないで」
そう言って彼女は微笑した。
「あの、美樹さんはやっぱりハンス先生と……」
結婚するつもりなのかと訊こうとして止めた。
「何か?」
美樹が首を傾げる。柔らかな照明の光が彼女を照らす。
「あ、いえ、何でもありません。僕、そろそろ戻らないと……」
鼓動が高鳴っていた。
「やだ。お兄ちゃんってば、美樹さんに惚れたの? 顔が赤いぞ。彩香さんに言いつけちゃおうかな?」
「澄子!」
妹を睨みながらも井倉の頬は紅潮していた。
「澄子ちゃん、それ、ハンスの前で言っちゃ駄目よ」
美樹が笑って人差し指を唇に当てる。
「何で? 嫉妬深いの?」
「お兄ちゃんの命の安全のためにね」
そう言って、美樹は笑った。冗談とも本気ともつかない言い回しに、井倉はまた、心が落ち着かない気がした。
その頃、リビングでは、フリードリッヒが彩香のレッスンを始めようとしていた。
「彩香さん、まずは、あなたの希望の曲があれば弾いてみてください」
フリードリッヒがピアノの蓋を開け、椅子を引いた。
「でも……」
彩香は躊躇っていた。
「すみません。わたし、先程は見苦しい態度を取ってしまいました」
彩香が詫びる。
「大丈夫。あんな事は、誰も気にしていないでしょう。少なくとも、この私は気にしていない」
フリードリッヒは彼女の前に立つと真剣に言った。
「誰が何と言おうと、貴女の実力は高く評価されるべきだ。ショパンコンクール優勝のこの私が言うのだから間違いない。違いますか?」
「先生……」
部屋の中には甘い花の香りが漂って、彩香の心を慰めた。
「ピアノは個性だ。ハンスのピアノと私のピアノが違うように、貴女と井倉のそれも違う。ピアニストとしての頂点を目指して、みんな進んでいる。だが、その道は決して一つではない。私はコンクールという道を選んだ。が、ハンスはそうではない道を進んだ。それでも、私達は互いの実力を認め合っている。いや、ハンスは認めたくないのかもしれないが、私は彼を高く評価している」
フリードリッヒは自嘲するように言った。
「私は、貴女の気持ちが痛い程わかる。私の家も古い商家だった。子どもの頃には何一つ不自由なく育ったと言ってもいい。だが、ピアノの実力も友人も金で買ったと揶揄された。そう。あなたの苦しみは同胞である私の苦しみでもあるのだ」
「バウメン先生……」
師の意外な告白に彩香は深く頷いた。
「私にはそれが我慢出来なかった。だから、私は昼も夜もピアノの練習に励んだ。そして、誰にも文句の付けようがない程の実力を身に付けようとショパンコンクールを目指したのだ。そして、優勝した」
いつも自信に満ちていた青い瞳に陰りが見えた。が、すぐにまたいつもの表情に戻ると、師は言葉を続けた。
「そのためには、まず徹底的に技術を身に付けなければならない。表現は大事だ。しかし、楽譜の指示通りに演奏する事が出来れば、曲は究極なまでに美しく洗練される。私は技術から入った。ハンスは多分、違うやり方をしたのかもしれない。だが、その過程でどのみち技術の習得をしなければあれだけの演奏は出来はしない。」
フリードリッヒは熱弁する。
「つまり、わたしと井倉の差はそこにあると?」
彩香が訊いた。
「そうだ。もし、ハンスが井倉君の事を可愛いと思っているのだとしたら、自分に近いタイプだからだ。だが、彼は、貴女の事も評価している。何とか開花させたいと願って止まないのだと思う。それは私も同じだ」
「先生……」
不安そうに見上げる彼女をフリードリッヒは笑って手招く。
「さあ、ここに来て座りたまえ」
彩香は言われるまま、その椅子に掛けた。
「ここに連弾用の楽譜がある。君達なら多分……ブラームスがいいのではないかと思う」
フリードリッヒが言った。立て掛けられたページは「ハンガリー舞曲」5番。
「それは……井倉次第ですわ」
彩香がそう言った時、その井倉がリビングに入って来た。
「おお、丁度よかった。井倉君、試しにこれを弾いてみないか?」
フリードリッヒが楽譜を示す。
「「ハンガリー舞曲」ですか。はい。僕は好きな曲です」
井倉が答える。
「好きだから何だと言うの? 好きと出来るは違うでしょう?」
突っかかるように彩香が言った。
「そうですけど……。僕はこの曲いいと思います」
「では、一人ずつパートを弾いてもらおうか。まずは彩香さんから……」
フリードリッヒが促す。
「はい」
先に席に付いていた彼女がメロディーラインを弾く。
「それじゃ、次は井倉君」
フリードリッヒに肩を押され、席に着くと井倉は伴奏部分を弾いた。
「いいね。では、合わせてみようか」
フリードリッヒが手を叩く。が、単独で弾いている間は良かったが、いざ合わせてみると滅茶滅茶だった。強弱も協調も出来ず、師は顔を顰めた。
「何と美しくない! 不協和音の極みだ。二人共、相手の音をよく聞きなさい」
フリードリッヒが嘆く。
「井倉、ちょっと伴奏が強すぎるわ。少し抑えなさいよ」
「彩香さんこそ、伴奏に比べてメロディーが速過ぎです」
珍しく井倉も意見を言った。
「わたしは正確に弾いてるわ。あなたが間違ってるんじゃない?」
「でも、メロディーの最初の音がフライングしてる。それでテンポがずれちゃうんです」
「何言ってるの? あなたの方こそ半テンポずれてるのよ」
二人は互いに譲らない。
「どちらも駄目だ! メトロノームを使ってやり直したまえ」
フリードリッヒが見かねて言った。
二人ははいと頷いて準備した。そして再び、フリードリッヒの合図で曲を弾き始める。が、何度やり直しても途中でずれてしまう。
「ほら、やっぱりあなたが常に遅れてる」
彩香が言った。
「いいえ。今のは彩香さんが速く入りすぎたからでしょう。それに……」
「それに?」
井倉は一瞬躊躇ったが、いつもうやむやな返事をすると言われるので、思った事ははっきり言おうと思った。
「少しメロディーが硬すぎると思うんですけど……」
彩香は鍵盤を手のひらで叩くと椅子から立ち上がった。
「そう。随分出世したものね。ヘル ルークにも気に入ってもらえたようだし、さっさとスイスにでもどこにでも留学したら?」
彩香は苛々と言った。
「そんな事出来ませんよ。彩香さんだってわかっているのでしょう?」
「ええ。わかっているわ。ハンス先生もあなたが気に入ってるって事。だからって酷いわ。わたしにそんな口を利くなんて、どこまでえらくなったつもりなの?」
「別にえらくなんて……」
「なっているでしょう? いつもなら、そんな風に言わなかったのに……。今は上から目線でものを言う。そんなあなたなんか見たくなかった……」
「彩香ちゃん……」
井倉もおろおろと立ち上がる。
「気安く呼ばないで!」
二人はピアノの前で睨み合った。
「私はいない方がいいだろうか?」
フリードリッヒが言う。
「申し訳ありません。井倉が頑固なものだから……」
彩香が言い訳する。
「僕ばかりじゃないだろう? 君だって意地を張ってる」
井倉も言った。
「意地を張ってるですって? このわたしが……」
「そうだよ。何を焦ってるのか知らないけど、僕はまだ、全然君に追い付いたなんて思ってないし、君を見下すなんてとんでもない誤解だよ。僕はいつだって君の事を尊敬してる」
「信じられないわ」
彩香の声は硬かった。
「信じて欲しい」
井倉は震える手をそっと握った。
「では、二人共、席をチェンジして」
フリードリッヒが指示した。
「え? でも……」
井倉が驚いて言った。
「ハンス先生は、わたしにメロディーを弾くようにと……」
彩香も言った。
「お互いのパートを弾く事でその位置や気持ちがわかるだろう」
師に言われ、二人は席を替わった。そして、井倉がメロディーを、彩香が伴奏を受け持って弾き始めた。今度はテンポは揃っていた。
「そう。この方がずっといい。どうです? 気持ち良かったでしょう?」
師に訊かれ、二人はそれぞれに頷いた。
「では、席を戻して」
フリードリッヒが言うと再び席を替わった二人が曲を弾いた。すると、今度はまるで揃わず、先程と同じようにテンポがずれた。
「どうしてだと思いますか?」
フリードリッヒが尋ねる。が、二人は俯き、黙っていた。
「それがわからないようではハンスが出した課題をクリアする事は出来ませんよ」
二人はまだ沈黙していた。
「では、わかるまで、二人だけで練習してください」
フリードリッヒはそう言うとリビングを出て行った。
気まずい時間が過ぎて行く。猫達がやって来て二人を見上げてニャアと鳴いた。が、立ち上がろうとしない人間達に飽きて、猫は毛繕いを始めた。それぞれ自分の手入れをした後、互いの体を舐め合っている。
「仲良しなのね」
それを見て彩香が言った。井倉は黙って頷くと、楽譜を見て言った。
「ごめん。さっきは強く言って……。僕がこの小節の頭でもう少し速く出れば問題ないと思う」
「いいえ。わたしの方こそ、少し肩に力が入りすぎていたと思うわ。今度は伴奏と合わせるように努力する」
二人は微笑し、練習を再開した。
午後、傾き掛けた陽光が壁の絵を照らしてもまだ、ピアノの音は鳴り続けていた。
「ほう。どうやら、互いの心が通じたようですね」
いつの間にか、フリードリッヒが来て言った。二人ははにかみながら頷く。
「でも、表現はまだまだです。次はそれを練習する事にしよう」
そして、2週間後。理事長の知人の娘である釜石里美が入院している病院のロビーでは、万全の準備が行われていた。ピアノの調整はもちろん、音の反響の効果や、病棟の患者への配慮から、簡易的な防音壁が設置され、細かな調整が行われた。
そして、ぼちぼちと客席に患者達が集まり出した頃、松葉杖を突いた藤倉が顔を見せた。
「こ、これは何という幸運か。まさか、病院で、あのアントニー・ルークとハンス・D・バウアーの演奏が聴けるなんて……」
感激している彼に黒木が声を掛けた。
「いったいどうされたんですか? その足は……」
「それが、お恥ずかしい事に階段から落ちて骨折してしまったんですよ。おかげで聴きたかったコンサートを3つも棒に振る羽目になったんですが、これなら、骨折した事を神に感謝したいくらいです」
などと言って笑った。
開演まであと僅か。観客は主に小児科に入院している子ども達とその親や病院関係者だ。80席用意していた座席は既に埋まり、立ち見でもいいからと観客の数は増え続けていた。13才の里美は車いすに乗せられ、看護師が付き添っていた。その手には点滴が繋がれていたが、表情は明るかった。
「里美さん。やっとお会いする事が出来ましたね。今日はあなたのために最高の演奏をする事をお約束しますよ。どうか、楽しんでください」
ルークがその手を取って笑い掛けると、彼女も嬉しそうに頷いた。
プログラムの最初は、彼女が一番聴きたがっていたルークの「ため息」。それは、いつ容態が変化するかわからない彼女の体調に配慮した結果だった。
ルークがピアノの前に座った瞬間から、そこは白い壁の病院ではなくなった。少女は近い位置からその手元を見つめ、藤倉は、壁際でうっとりと耳を傾けた。
(ああ、得も言われぬ神秘の世界がここに広がっていく……。何という豊かさ。そして、何という優しさ。柔らかな絹に巻かれ、身も心もとろけてしまいそうな繊細な音色だ)
藤倉は、流れる涙に気づきもせず、じっと奏者を眺めていた。少女の目にも涙が溢れる。そして、演奏が終わると、彼女は点滴の針の刺さった手にもう片方の手をそっと当てて拍手した。その手にルークがキスすると、少女は涙を流した。看護師が拭おうとすると、ルークがそのハンカチを取って少女の目元にそっと当てた。彼女は嗚咽し始めた。それを見ていた周囲から一斉に拍手が起こった。
「ありが…とう…ございます」
少女はゆっくりと一音ずつ噛み締めるように言葉を発した。彼女は声が出し辛い状態にあった。それでも一生懸命がんばってそう言ったのだ。
「奇跡のようだわ」
少女の両親も感激していた。その感動が収まるには時間を要した。
藤倉はその間にプログラムを確認し、2曲目の奏者を見て意外な印象を受けた。次はハンスが同じリストの「愛の夢」を弾く事になっている。
(何故、こんなプログラムの組み方を?)
用意されている曲は5曲。しかも、真ん中に井倉と彩香の連弾を挟み、後半は、順番を変え、最初にハンスが弾き、最後に再びルークが演奏する事になっている。藤倉は何か裏の事情があるに違いないと確信した。
ハンスが椅子に座ると、会場はしんと静まった。里美も興味深げに彼を見ている。そして、演奏が始まった。
(これはまた、何という優美さだ。流れるようなタッチと官能的なまでのロマンティシズム。黄昏に鐘が鳴る……。人生で最高の愛と喜びを乗せて、静かに暮れて行く人生の灯火よ。ああ、このまま、すべてを、この身を委ねてしまいたい……)
藤倉は更なる感動の渦に呑まれ、思わず松葉杖を放って拍手した。少女も嬉しそうに拍手し、隣にはルークが付き添い、しっかりとその肩に腕を回している。
「何と微笑ましい光景か」
黒木も思わず目頭を熱くしながら、それを見ていた。
「さて、次は君達の出番です」
ハンスに言われ、井倉と彩香は緊張した。2週間きっちり練習したとはいえ、本番で弾くのは初めてだ。美樹とフリードリッヒの姿は会場になかった。前から入れていた仕事が重なり都合を付ける事が出来なかったのだ。二人のレッスンは主にフリードリッヒが行っていた。その成果をハンスは期待していると言った。
黒木が二人を紹介し、人々が拍手した。
彩香は優雅な物腰で椅子に掛けた。が、続いて井倉も座ろうとして、椅子の脚に躓いた。子ども達から笑いが漏れた。前の席にいた小さい男の子が、
「がんばって!」
と言った。井倉は顔を赤くしながらも、
「ありがとう」
と言って席に付いた。
「大丈夫?」
彩香が囁くように訊いた。
「うん。大丈夫」
井倉が頷いたので、彩香も軽く深呼吸した。
(弾ける。僕は信じる。彩香さんと二人で弾く初めての舞台なんだ。きっと成功させてみせる)
二人を見つめるたくさんの瞳。その中にはハンスやルーク。黒木、そして、評論家の藤倉もいる。失敗は出来なかった。井倉の鼓動はこれ以上ない程高鳴った。天井の四角い照明がピアノの蓋に映る。見ると少し緊張して頬を染めた彼女の顔も見えた。
(彩香ちゃん……)
次の瞬間。曲が始まった。弾き出せばもう、周囲の事は何も見えなくなった。ただ、彼女とピアノの息遣いだけが耳の奥に鳴り響く。藤倉はそんな二人の音に聴き入っていた。
(これはまた、二人共、随分と成長したようだ。フィーリングもいい。伴奏とメロディーのバランスもいい。この短期間によくここまで仕上げたものだ。これも指導者の力量というべきか)
演奏が終わると藤倉は惜しみなく拍手を送った。井倉もほっと胸を撫で下ろした。二人の演奏にミスはなかった。頬を染めた彩香が井倉を見て頷く。
(彩香ちゃん)
井倉も微笑む。見ると、ハンスも笑顔を向けていた。
そして、後半はハンスがショパンの「革命」を弾いた。これは事前にアンケートした結果、リクエストの多かった曲になったのだと言う。あまりに有名なこの曲を、ハンスがどう演奏するのか、藤倉は耳をそばだてた。そして、井倉も一音たりとも聞逃すまいと身を乗り出した。彼にとっては思い出深い曲だったからだ。初めて、ハンスに会った日、この曲でレッスンを受けた思い出の曲。
――この曲が何なのか、僕にはさっぱりわかりませんでした
評価は散々だったが、忘れがたい曲だった。
ピアノの前に座るハンスの横顔は、白く透けた人形のようだった。瞳は憂いを帯びて遠い何かを見つめ、思い詰めたような緊張の後、ふっと息を吐き出すと、睫が微かに揺れた。次の瞬間。しなやかな指先が硝子を砕くように鍵盤の上に叩き付けられた。その一つ一つの音が、透明に罅割れるように響く。
(引きずられる……。曲の魔力に……。何ということだ。熱く燃えたぎるような思いに怒りとも悲しみともつかない心底ぞっとするような深淵が覗く。それでも、曲はあくまでも美しく、聴いた者を虜にする。心がばらばらに引き裂かれる。そんな恐ろしさにこの身が震える)
曲が終わってもしばらくの間、誰も動けずにいた。藤倉でさえ、手を打ち合わせる動作をするまでに数秒を要した。
(完璧だ。だが、病院で弾くには悲しみが強すぎるのではないだろうか)
そんな藤倉の懸念を払拭するように誰かが叫んだ。
「ブラボー!」
同時に拍手と歓声が巻き起こった。ハンスも立ち上がって笑顔を向ける。
井倉は感動のあまり、何も言葉が出なかった。
(やっぱりハンス先生はすごい……。これが、革命……。言葉では伝わらないすべての感情が、心の底にまで流れ込んで来る)
隣を見ると彩香も涙を流している。見れば、そこにいた多くの子ども達も同じように泣いていた。防音壁によって囲われた会場の中には、一種一体感に酔いしれている不思議な感覚が生まれていた。
そして、最後に再びルークが席に付いた。彼もまた、ショパンの曲で、有名な「ノクターン」を弾いた。メロディアスで雰囲気のいいこの曲は多くの人々から愛されて、リクエストも多かった。
(これはまた、何と甘くロマンティックな音色だ。ああ、生きてて良かった。足を折って良かった……)
藤倉は幸福の絶頂にいた。心配していた里美の容態も安定していた。少女は最後まで演奏を聴く事が出来た。大好きなピアニスト、アントニー・ルークに手を取られ、別れの際には、何度も抱擁を受け、キスされて、彼女は幸せそうだった。
「君が一日も早く元気になるよう、心から祈っている」
ルークが言った。それは、ハンスや黒木、井倉や彩香も同じ気持ちだった。里美は両親から貰ったルークのCDを聴いてファンになったのだと言った。自分もいつか、リストの曲を弾きたいと願い、練習していた。病気になったのはそんな時だったのだという。
「きっと元気になってね。また、お見舞いに来るですよ」
ハンスも笑ってそう言った。
「ありが…とう」
里美もうれしそうに言った。そして、他の患者達も全員で、玄関まで見送ってくれた。ミニコンサートは大成功だった。
家に戻ると、早速アンケートの結果を集計した。用紙に書かれた曲で、良かったものにチェックを入れるという簡単なものだったが、皆熱心に書き込んでくれた。
公平を期するよう、黒木が集計し、後から駆け付けたフリードリッヒが表にしてくれた。どの曲にも相応の票が入り、二人の師の人気は拮抗していた。が、総計で、ハンスが2票差でルークより多く得票した。
「ははは。観客は子どもが多かったからね。やはり、子どもは子どもの演奏を好むのだろう」
ルークの言葉に、ハンスはむっとして反論する。
「子どもは、老人にもやさしいんですよ。たったの2票差だなんて……。僕には信じられませんね」
「おや、随分言うようになったね。でも、嬉しいよ。小さかった坊やが立派になって……。帰ったら、早速君のお父さんにも報告しとくよ」
「それはどうも」
ハンスはその事も気に入らなそうだった。が、ルークは構わず続けた。
「いや、とても楽しかったよ。まさか、ここで坊やに会えるなんて思わなかったからね。遙々日本まで来た甲斐があったというものだ。それに、何より、里美に喜んでもらえて、私は満足だ。それが一番の目的だったのだから……。それと、2票差でも負けは負けだからね、井倉君の事は諦めるよ」
そう言うとルークはあっさりと引き下がった。
「ありがとう。アーニーおじさん」
ハンスもようやく笑顔を向けた。井倉もほっと胸を撫で下ろした。
「ねえ、井倉、これ」
子ども達が書いてくれたコメントを読んでいた彩香が思わず視線を留めた先には、幼い文字で「ハンガリーぶきょく」が1番良かったと書かれていた。たった1票ではあったが、巨匠二人を押しのけて、彼らの曲が1番良かったと言ってくれた人がいる。それだけで、胸がいっぱいになった。
「彩香さん……」
井倉が見ると、彼女は確かに微笑してくれた。
(うれしい。何だか、最高の日だ)
井倉の心は空高く舞い上がるようだった。
「さて、ハンス。次はいよいよ私達の番だな」
後からやって来たフリードリッヒがにこやかに言った。
(そうだ。ハンス先生の日本でのデビューコンサート)
次はいよいよ本格的なホールでハンスの演奏を聴く事が出来ると思うと井倉の胸はまた高鳴り出した。その時、ルークが思いがけない言葉を口にした。
「井倉君はフリードリッヒ、君に任せる事にして、私はルイ坊やを連れて帰る事にするよ」
皆が驚いてその顔を見る。
「妻はいろいろとお土産を買っていた。私もせっかく来た日本からお土産を持って帰りたいからね」
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